赤子の可愛さについて

我が家に赤ちゃんが来て二ヶ月ほど経った。大変である。いや、こう言うと、お前が何を大変なことがあるのだとか、配偶者の方がよほど大変なのに何を言っているのだとか、今まで通り働いてるのにちょっと追加になっただけでそんなに言うなんて実に気楽なもんだ、猛省しろ、などなど、様々に言われそうである。慌てて付け加えるなら、これは当社比です。

ともかく赤子である。可愛いかどうかでいうと、大変可愛い。ここで思い出すのは、子供が生まれてやたらめったら人に我が子の写真を見せまわってはしゃぐ新米パパママのことで、幸か不幸か自分は最近人とほぼ会わないので別にそうではないのだが、そうした行動をするのはなぜかと言うことである。もっと言うと、そうして見せられる赤子が大概可愛くないのもなぜかと言うことである。正直言っていまだに他人の赤子はそれほど可愛いと思わない。友達に子供が生まれた人は全くいないし、会社の人や親戚にもそうした写真閲覧強要マンはいないが、SNSやらテレビやらで見かける赤子を見てもフーンとしか思わない。子供ができたからと言って、赤子が無条件で可愛いと認知を書き換えられる訳でもないようだ。

いや、「他人の赤子は可愛いと思わない」というのは、実際にはいささか語弊がある。可愛い赤ちゃんは、いる。目がぱっちりして、造作が整い、こりゃ可愛い、という子はいなくはない。オムツCMに出てくるような赤子である。翻って自宅にいる赤ちゃんを見ると、例えば自信を持ってテレビカメラの前に送り出し「うちの子が世界一可愛い!」と言えるほど顔が可愛いのか、と問われたら、ウーン、となってしまう。いや、ウーンと唸った挙句に「言える」と叫んで送り出す可能性はある(親バカ)。でも逡巡はすると思う。つまりもっと可愛い赤ちゃんがこの世に存在する可能性は相当程度認めたくなると思う。

ではなんでそれでも可愛いと思うんだろうか。暮らしてみて何となく思ったのは、赤子が可愛いのは、表情なども含めた動きが可愛いのだと思う。世話をして笑ったり泣いたりの反応が返ってきたり、安らかに寝ていると思ったら途中で不意にビクッとなったり、あるいは親の顔をジッと見つめていたかと思うと不意にニッコリしてみたり。写真で見せてもそういう動きは伝わらない。写真から分かるのは、赤ちゃんの顔の造形とその表情、その時何をやっているか、残りはまあその時の周りの背景状況くらいの、断片的な情報である。もちろんそれをみて、自分で文脈を補完して、「可愛い!」という人はたくさんいるだろう。特に自分で既に育児の経験がある人なんかは、自分の体験を思い出すこともできるし、そこまで明示的でなくてもなんとなくその時の感情を思い起こすことだってあるだろう。でもそうでない人は、可愛いかどうかの判断は、顔と表情である。ここまでくるとアイドルの写真を見るのとそう変わらない。赤子一般の顔の可愛さというのはあると思うが、それだって評価するのは人それぞれだ。そうすると見せられた赤ちゃんの写真をそんなに可愛いと思わないなんてざらにあるだろう。何しろ顔がいい人なんてそう多くないんだから。

赤ちゃんの可愛さは、犬や猫のもつ可愛さと少し似ていると思う。どちらも言葉でコミュニケーションできないが、ふとした行動や表情で意図や気持ちが伝わってきたりして、それが分かると「可愛い」と思う。それは顔の造形とは全く関係がない。犬や猫も美犬や美猫などはいるが、全部の犬猫がそうではないし、別に美犬美猫じゃなくたって可愛い時は可愛い。飼い犬飼い猫なら尚更だ。赤ちゃんも、例えば、動画などでそうしたところが収録されているのを見せられたら可愛いと思う率も上がるかもしれない。犬や猫と違って人間だし、その赤ちゃんの親との関係性や親の印象にだって左右されるから一概には言えないが、少なくとも写真よりはマシそうだ。

さて、当然、これは他人の赤ちゃんについての話で、自分の赤ちゃんについては(繰り返しになるが)当たり前のように可愛いと思う。写真は、もちろん他の人に見せるのも一興だが、見せる相手としてもっとも重要なのは多分未来の自分なのだろう。どんな風に成長していくのか、今の写真を未来にどのように見返すことになるのか、楽しみだ。(親っぽく締めてみました。)

近況

ご無沙汰しております。長く書こうと思っていたのですが、全然自分に書き始める様子がないのでともかく事実をメモしておきます。

 

・子供が生まれました。1月です。3月末から三人暮らしになります。

・一人暮らしの間に多少自炊ができるようになりました。ただし料理というより、食べられるように食材を加工しているといった趣があります。

・仕事は第一波を切り抜けました。第四波まであります。どんどん大きくなります。

・30歳になりました。誕生日はめっちゃ仕事しました。

・更新していない間に、ジョーカー、パラサイトを映画館で見ました。それぞれ考えるに値する映画でしたが全省略。

コロナウイルスにはまだ感染していないようです。

 

あけましておめでとうございます

年賀状の発送はこの更新をもって代えさせていただき……と思いましたが、今年は住所を知っている主だった知人にはリアル年賀状を発送しているので、この更新は何らかの理由で年賀状を発送していない方々への年賀のあいさつとさせていただきます。

 

近況はまた更新します。去年はここ数年の間では最も記事をアップした年ではありますが、本当は更新頻度をもっと上げたい。

不定期日記

瞬く間に一ヶ月以上過ぎ、もはや夏も終わろうかとしていることに驚愕しています。

 

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【外出について】

今年はほとんど遠出しなかった。鹿児島の後、同じく出張で大阪・奈良に行っただけ。細かいところでは千葉に赴いて弟の新居に遊びに行ったり、母校に行ったりしたが、特段のものではない。大阪と奈良で食べた写真をいくつか挙げる。

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大阪ではお好み焼きを食べた。かなり美味しかったが、それより驚いたのが値段で、上記のほか焼きそばまで食べて2000円である。安すぎる。またいきたい。

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奈良の食事は正直あまり期待していなかったのだが、非常に美味しい店に巡り合うことができた。奈良の地酒を主力とする居酒屋だったのだが、料理も極めて美味しく、特に写真の万願寺とうがらしを使った料理は絶品だった(京野菜を奈良で食べるのも変な話だが…)。日本酒もよく、店員の方もイチオシの三日踊という銘柄がとても味わい深い名酒だったので求めて帰ろうと思ったが、奈良駅近辺ではほとんど扱われていない様子で断念した。残念。また行く機会があれば飲みたい。

 

【映画について】

・天気の子について

結局2回見た。基本的には前書いた感想から変わっていない。いろいろレビューも見たが、よくて感想、悪くて妄想といった感じでろくなものがない。新海誠に気持ち悪いと言いたいだけなようなものも結構ある。べつにそれはそれでいいが、少なくとも金を貰って感想を言うような人々には多少の責任感を持って仕事をしてもらいたいと思う。

 

・ライオンキングについて

ものすごいクオリティのCGでかなり驚いたが、それだけに話自体のむかつき具合が目についてやりきれない。そもそもサバンナでライオンふぜいが王政を敷いてるというだけで若干イラつく。食物連鎖の頂点みたいなイメージなのかもしれないが、食物連鎖のピラミッドが表しているのは個体数であって地位ではない。勝手にカーストにすんなやボケ、というところからまず始まる。話もよく考えたらひどい。貴族の坊ちゃんが親戚同士の内紛に巻き込まれて海外移住し、そこで通常なら付き合わないようなやつと一緒になって楽しくやるが、最終的に謎の責任感に目覚めて戻って親戚をやっつけ、ついでに幼馴染(貴族の娘)とくっつく。要するに上流階級の内紛である。知らんがな。イノシシとかはいじめられっ子みたいな扱いだが、大変な時に助けてくれたので最終的に名誉白人みたいな地位に落ち着く。よかったね。でもこれ原作はアメリカで作られたんだろうが、むこうでジョックとかクイーンビーとかいってスクールカーストに苦しんでる子供が見たらマジでそのまんまだし辛いんじゃなかろうか。少なくとも自分だったらすごいムカつくとおもう。

不思議なことに、上で書いたようなことは昔劇団四季のものを見たときは全然気付かなかった。おそらくだが、生身の人間が演じているということや、演出の違いかなんかで見えなくなっていたんだと思われる。ライオンやら動物を演じるっていう時点でちょっと可笑しいし、歌の聴かせどころなど個別のトピックに意識が行くので、話自体にそんなに意識がいかない。映画だとストーリーラインが明瞭に見えるし、CGは極まった完成度なので、それだけに話の意味合いがヴィヴィットに伝わってきてつらい。総じて、舞台で観たほうがいいと思う。ただし子供ライオンの可愛さは本物だったので、名探偵ピカチュウよろしく子供ライオンのじゃれあいシーンのみを2時間放映すればそれが最もよいと思われる。発見という意味では非常にあったので見てよかったと思うが、おそらく二回は見ないだろう。

 

・「ジーザスをさがして」

写真美術館の試写で見る。ポーランドの女性芸術家の作品。エルサレム症候群の人々の内面を掘り下げるドキュメンタリー…らしいが、全編英語かつ日本語字幕なしなので悲しいことにほとんど意味を理解できなかった。残念。ただ、見てよかったと思う。まずエルサレムの街の風景がよい。大伽藍をとりたてて写すわけではなく、民家、郊外の荒野、街並みや路地といったあまり目にしない場所で撮影されている。出てくる人物もヤバ目な人ばかり。聖母マリアみたいなコスプレをして人の足を洗いたがるアメリカ人の小太りの女、夫と子供を捨ててエルサレムで野宿するドイツ人、木の根元に敷いたダンボールに横たわる浮浪者みたいな見た目の老人。エルサレムはいろんな意味で特殊な地域だが、それが世の中にきちんと厳然と実在するという現実のありかたがよく伝わってきた。話を理解できればもっとよかったのだが。

海外のドキュメンタリー映画は昔ユーロスペースとかでも少し見ていたのだが、それを思い出した。またいろいろ見てみようかという気分になった。買おうかどうか迷っていた「100000年の安全」なんかもこれを期に買おうか、なんてことも思った。

ちなみにそもそもの目的だった写真展はあまり面白くなかった。

 

【音楽について】

ジャニスが潰れて以降、新しい音楽の仕入れ頻度が本当に激減したので、最近は持っていたけど聞いてなかったCDを発掘したりしている。あとは図書館で借りる程度。

聞き直した中でよかったのは、キリンジの「3」というアルバム。

 

https://www.youtube.com/watch?v=3hLtE9gT1CE

 

https://www.youtube.com/watch?v=Fx5Eh3Wmr-Q

 

もともと友人から頼まれて借りたのを自分で持っていて聞いていなかっただけだったのだが、非常に良いアルバムだった。アルカディア、名曲である。むすんでひらいては後半のサビが本当に素晴らしい。完璧な幸福の中をそうとは知らずに生きている人を言祝ぐような曲である。まあ歌詞は全然そんな感じじゃないのだが。

そのほか、ロバートグラスパーのBLACKRADIOなどを図書館で借り、これも非常によかった。予算もそれほど割けないので厳しいが、ぼちぼちいい音楽も探していきたい。

 

【読んだ本について】

・「なめらかな世界と、その敵」

極めて面白い。粒ぞろいの作品が集まっている。個人的には「美亜羽に贈る拳銃」と「ひかりより速く、ゆるやかに」が好きだった。同作者の手によるこの本に未収録の短編もいくつかあるようなので、国会図書館に行った時についでにコピーでも取ってこようかと思う。

ストーリーの出来不出来を考える時、なんとなく料理の出来不出来のアナロジーを思い浮かべるのだが、この人の小説はどういう味を出すかをかなり意識的に考えて構築している感じがする。あと多分、ペリペティアを作るということも意識的にやっている雰囲気がある。だからかもしれないが、話の流れとしてはなんとなく似たものを感じる時がある。もっというと、話の表層は(当然だが)全く違うのだが、ベースの味を決めるダシの部分に全て同じ確固としたものがあるようなイメージがある。

ものすごく美味しい定食屋でものすごく美味しい定食を食べているような感じである。メニューは様々あり、素材の味も生かしつつどれも美味い定食になっているのだが、ただしそれの屋台骨は全て共通の秘伝の調味料、という感じ。なんか褒めてないようにも見えるが、これは本当にすごいことだとおもう。まとまらない感想になってしまった。

 

・5等分の花嫁

もろもろつらいので憂さを晴らすラブコメかなんかでも…と思って急に読み始めたのだが予想よりもかなり面白く普通にハマっている。キャラがかわいい。基本的に悪人が(まだ)出てこない。伏線もけっこう凝って張っているような部分が多く、話としても読ませる。人気が出るのもわかる。9月中旬に出る11巻もかなり楽しみである。100話記念のマガジン特集号も買ってしまった。週刊誌を買ったのはウン年ぶりである。1期のアニメもYOUTUBEで公開していたので一気に通しで見てしまった。2期も楽しみである(見るかどうかは不明だが)。

 

少女終末旅行

これも同じくもろもろつらいので面白そうな完結済み漫画を…と思って急に全部買って読みだしたのだが非常に面白かった。星雲賞は伊達ではない。エレベーター動かすAIのくだりは少し感動した。あと風景が良い。

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終わりです。書きかけの旅行記などはまたそのうち。

天気の子に関する覚え書き

「天気の子」を見た。前作はエンタメとしてとても面白かったけどまあフーン、ウケるねって感じで特になんともなかったのだが、今回はなんかいろいろ不穏に感じるところも結構あって戸惑っている。なぜか職場やらでめちゃめちゃ感想を要求されているが正直困る。ということでここに少々感じたことをまとめておく。全部妄想です。

 

ネタバレ満載なので未見の方は引き返すように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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セカイ系、なのか】

できるだけ前情報を見ないようにことに当たろうとしたのだが、どうしたって多少目につく。見たのは「エロゲーっぽい」とか「セカイ系」とかそういう形容。「エロゲー」はまだわからんでもない。でも少なくとも「セカイ系」ではないと思う。モノローグでは「世界を変えてしまった」みたいなことをよく主人公が言っていたが私見ではあれはレッドヘリングみたいなもんである。

例えば、そもそも雨が降っているのは東京一帯だけだし、天気を変えるのも東京の中のごく一部である。天気図やらわざわざ地球全体のシーンやら出てくる(地球が出てきたときはちょっと笑った)が、他の地域は全然別に何にも起こっている様子はない。普通に晴れてる。世界は東京か?事実としては違うだろうが、別にそう考えても悪くはない。でもそれなら「お前は別に世界を変えてない、もともと狂った世界だったんだ」(大意)みたいなことをわざわざ大人に言わせる必要があるのだろうか?

セカイ系といっても別に定義がきちんと固まっているわけでもないし、全世界的な問題を解決するだけがセカイ系の話でもなさそうだ。だけど、モノローグで「世界を変えてしまった」とかいってるとか、天気を変えるという能力とかを理由にセカイ系とするにはなんか理由が足りないような気がする。いや、もっといえば、そもそもセカイ系というのはどうでもよかったのかもしれない。全然別のモチーフがあったのではないか。

 

【自由】

正直言って、冒頭からすごく不穏な空気を感じていた。まず家出した主人公は船の注意指示を守らず死にかける。あてもなく東京に行き、ホームレス状態になる。普通に行ったらそのままヤバイコースに突入するだろうところで、自ら連絡を取った船での「命の恩人」に助けられる。高校生なのに働く。ヒロインを助ける、銃まで撃って。

今思えば、冒頭から不安だったのは、結局のところ、主人公が社会からほとんど疎外されているところから来ていたのかもしれない。何をされてもおかしくない、紐帯のない存在に不安定感を覚えていたのかもしれない。でも最終的に、疑似家族的な共同体を見つけ、仕事もし、身なりもよくなり、こういって良ければ、いわば「社会復帰」していく。

ここでのポイントは、上記のほぼ全ての点において、「主人公自らの意志と行動の結果として」物事が動いていくところである。そもそも家出自体が自分の意思での行動である。注意指示を守っていたらおっさんには合わなかった。困窮しているときに助けてくれたのも、おっさんと偶然再会したのではなく、自分から連絡したからだ(それもわざわざ事前に電話でアポまでとって!)。仕事も自分で探している。ヒロインも偶然助けたわけではない。一飯の恩義を覚えていて、自分の意思で助けている。自分の意思でやったから、ちゃんと後悔もする。

なんか現実に置き換えたら普通の話にも思えるが、作劇上は全然そんなことはない。「君の名は」での出会いは、主人公二人の意思はほとんど介在していない。ある意味で、「運命」によって、出会っている。関係性も否応なく築かされている。ほとんどの行動は「呉越同舟」的シチュエーション下で行われ、会いにいくとか、そういう具体的アクションを起こすのは関係性が進展してからだ。これはある意味でエロゲーに近い。幼馴染、学校の先輩、といった関係性を想起しよう。ヒロインが与えられるのは設定によってであり、主人公の意思によってではない(もちろん全部のゲームがそういうわけではないが)。天気の子ではそうではなく、さまざまな点で意思が介在している。

そして意思をもとに行動するとき、社会や法や倫理といった、そういった規範的要素はすこし背景に退いている。だって、そうでなかったら、銃とか普通撃つか?

本来16歳という年齢は、そうした自己決定をそれほどしなくてもよい、あるいは厳しく禁じられている年齢である。同年代のそうしたありように比べて、主人公の行いは異様に意思的で、こういってよければ、自由である。

はじめの困窮したシーンにしたって、家出という自由の代償である。法からの自由(犯罪行為)によって、主人公は警察に追われる身となる。そもそもヒロインが消えることになる遠因でさえも、「天気を売る」という主人公発案の商売である。ヒロインが消え去る前の決定的な一言も、主人公が自ら言っている。意思の結果によって道をひらき、意思の結果によって罰せられる。これは現実の自分たちと比較しても顕著なほど自由である。

この「自由」を重視する描写は大小含め全編に及んでいると私は思う。例えば、主人公がヒロインに渡した指輪のデザインは翼だ。なんでわざわざ?ヒロインの弟は主人公に言う、自分が小さいから姉には苦労をかけている、だから、少しくらいは青春ぽいことさせてやりたいんだ、と。プレゼントは指輪がいいというアドバイスも与える。ふつう指輪は恋人関係、婚姻関係…要するに社会的関係の象徴だ。なのにわざわざ、なんで指輪に翼のデザインを選ぶのか?翼は自由の象徴だからだ。

 

【手錠】

個人的にもっとも印象的だったシーンは、ラスト空中から落ちていくところで、ヒロインとの間に手錠を使わないところである。正確にいえば、手錠は引き寄せるためだけに使われ、手錠本来の拘束具としての使用はされない。私は使うのかなと思いながら見ていたが、よく考えたら使うわけがない。なんで自由がここまで一貫して描写される映画の、まさにクライマックスのシーンで、わざわざ手錠をもってヒロインとの結びつけを強固にするのだろうか?全部台無しだ。そこには、陽菜の意思が介在しない。それではダメなのだ。ふたつの手で手繰り寄せて、自分の手だけでつかんでいなければならないのだ。たとえ助けに手錠を使おうとも、最後には、結びつきを維持する手段は自分たちの手でなければならない。この辺りはちょっと感動的だった。

そしてシーンの最後で、主人公は言う。「自分のために願え」と。翼の指輪をあげるんだから、そう言わなければウソである。

 

【社会に背を向けること】

最後、東京が水没してしまったという点をもって、社会に背を向けて…みたいな含意があるとするコメントも見かけた気がする。そうかもしれないが、でも「世界はもともと狂っていた」のだし、狂った世界の狂った生贄制度をやめとけというのはわりと観客側からは受け入れやすく、そこまで背いてもないんじゃないのとも思う。劇中の東京も別に水上バスで通勤してるらしいし、そもそも日本列島は広いのだから東京だけ異常気象がやばいんだったら首都移転すればいいだけの話である。自然と社会の問題で、別に主人公とヒロインが介在する必要はない(セカイ系ではないんじゃないのと思うのはこの辺の事情もある。)むしろ「社会に背を向ける」という点からみて最もラディカルなシーンは、クライマックス直前の、廃墟のビルにおけるシークエンスである。

 

【愛にできることは(生きている限り、常に)まだある】

最後、オルフェウスみたいに天上へ陽菜を助けに行くシーンは、まあ言ってしまえばファンタジーで、その後も結局助かってよかったね、3年経つとみんな落ち着くとこに落ち着いたし、みたいな感じになっている。でも考えてみると、陽菜は天上にいて(≒死んで)、主人公は陽菜の元へ行かせろといい、警察やらの妨害も切り抜けて結局天上に行くわけである。ここから示唆されるのは、死んだ愛する人の元へ自分の意思で赴くということの話‥…要するに自裁の話である。自裁の権利の話は尊厳死などの話題を出すまでもなく、議論だらけであるし、究極の自己決定権、究極の自由の話といってもいい。愛する人を失い、取り戻すために、その人の元に行きたいと叫ぶ少年に対して、警察は、近しい人は、何ができるのか?少なくともこの作品では何もできていない。警察(お望みなら社会でも、法でも倫理でも、なんといってもいいが)は、ただ逮捕を試みて失敗する。近しい人(お望みなら友人でも、家族でも親族でも、なんといってもいいが)は、はじめ説得するが、最終的には本人の希望に寄り添うしかない。失われた人の親族は「返せ、お前のせいだ」とまでいう。結局主人公は天上に行く。廃墟のビルの屋上からジャンプすることによって。足元にはお彼岸のキュウリとナスがある。救われるのはただファンタジーの思し召しだからだ。

監督本人が「怒らせる」とか「賛否がある」とかいうのが何を指しているのかは正直わからない。ここで書いたことも妄想だと思う。でも、仮に「社会に背を向ける」ということをテーマにする(そういうインタビューがあったと記憶している)のであれば、行き着く先は二つしかない。社会そのものを破壊するか、社会と自分との関係を全く断ち切るかだ。社会を破壊しつくすことなんてできない。人間として生を全うする限り、社会との関係を全く断ち切って生存することなどできない。さて、強い絆で結ばれた、愛する人がもういないとしよう。ただの個人に取りうる選択肢はなんだろうか?

 

野田洋次郎も歌っている。

 

君がくれた勇気だから 君のために使いたいんだ

君と分け合った愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

愛にできることはまだあるかい

僕にできることは まだあるかい

 

だから愛にできることは、生きている限り、常に、まだあるのだ。

 

【以上を踏まえた感想】

・面白かったけど不穏な気分になりました。

 

【その他の思ったこと】

・「君の名は」の登場人物が出てきてたけど、そうなると作中の年表大丈夫なのだろうか?「君の名は」のラストシーンは晴れていたが、三年後という発言と整合性が取れるのだろうか?瀧くんはまだ就職してなさそうだったし(なにか見逃している可能性はめちゃめちゃ大いにある)、三葉はアパレルで働いていたが既に再会している感じでもなかった、ような気がする。時系列的に一番シンプルなのは「君の名は」の二人が再会した後の話とすることなので、気づいてないだけでそういう描写があった(もしくはそうした可能性を排除する描写がなかった)かもしれない。まあ多分ただのサービスなのでこんなん気にするだけ無駄だしただの揚げ足とりだが‥‥‥。

→後で考えたら、三葉の同級生の結婚シーンが(多分)あったのでふつうに再会した後の可能性ありますね。自己解決しました。

・登場人物が飲む飲料が全部サントリー製で、少なくとも飲料業界には世界の終わりが到来していることがわかる。

・描写もスポンサーだらけで、監督も大変だろうなと思う(あとウケる)。劇中のチャーハンをローソンで売っていたが、味はともかくこれはけっこう最悪な趣向だと思った。綾波とアスカが仲良くエナジードリンク飲んでるみたいなもんである。自由資本主義だから…とかいって上の話と絡めると最悪な感じになってくるしパラノイアっぽいのでもうしない。

 

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終わりです。万が一2回目見たら追記もあるかも。

北海道記

 去年の晩夏、北海道の礼文島に一人旅に行った。いろんな意味で思い出深い旅となったが、記録に残さないとどんどんと忘れていってしまうのは明らかである。ということで、細部は思い出しながらということになるが、ここに少し記録しておこうと思う。

 

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【旅の縁起】

毎年というわけではないが、自分は毎年一回程度僻地に一人旅に行く。といっても、そのパターンができたのは数年前くらいだから、そんなに昔からということではない。仕事を始めた当初は京都などに一人旅に行って、祇園でもない片隅の酒場で潰れたりしていた。転機となったのは3、4年前ほどにいった長崎野崎島旅行で、携帯も繋がらず、食料飲料も全て持ち込みのみ、島にいる人は(ほぼ)自分だけ、という状況で、無人の教会でSFを読んだり、あてもなく島を散策したり、非常によい旅だった(これもいつかは詳しく書きたい)。そこで思ったのは、一年に一回くらいは人のいないところに行くのは自分にとって極めて重要なのではないか、ということだった。ということで、それ以降僻地にちょいちょい赴くことが習慣となった。

とはいえろくに車の運転もできないので、「本物の僻地」のようなところに行くのは難しい。2回目は鹿児島の内之浦で、実家近くのバーのマスターにお世話になった。内之浦は「本物の僻地」といってそれほど差し支えない場所だが、マスターの多大なるご厚意(車、宿、食事…)にあずかり堪能することができた(本当によいところだった。これもいつか記録に残したい)。今回記録しようとしている北海道の礼文島は、だから旅としては3回目となる。稚内までは飛行機、稚内から礼文島は船、礼文島内は徒歩やバス。公共交通機関と自分の足のみの旅となる。正直難易度としては初中級くらいなわけだが、修行でもあるまいし、観光なんだからというコンセプトである。後から振り返ると、幸か不幸か、いろんな巡り合わせによって「観光旅行」から「旅」に変わっていったわけであるが。

礼文島にした理由は、特段の事情があったわけではない。離島の旅行先を調べていて、その中に礼文島があった。旅行時期は9月初頭、その時期にはまだ多少花が咲いていて、ウニのシーズンもギリギリ重なっているという頃合いだった。人が少なそうなのがポイントだった。礼文島の観光最盛期は6月から8月にかけてである。固有種のレブンウスユキソウが咲き、ウニもとれ、なにより避暑地として素晴らしい。最盛期と比べると、9月は見所に乏しい。花もウニも終わりかけ、季節はいささか肌寒くなってくる頃合いである。秋は秋でお祭りがあるが、オータムフェスタは9月中旬である。ということで、9月の初頭は自分にはちょうどよい時期だった。

 

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【旅の準備】

諸々の手配をする。航空券はホテルとのセットチケットで予算圧縮を図る。旅程は3泊4日、1日目は稚内で宿泊し、早朝の船で礼文島に向かう。稚内から礼文島は数時間かかる。礼文島の宿は、島の南側にある民宿を2泊手配する。そもそも宿泊施設が少ないのだが、港近くにあるホテルはしっかり高い。貧乏旅行ではないがお金をかける旅ではないし、こぢんまりした民宿の方が旅情があるだろうとも思いそのようにした。島での旅程は1日目は港から民宿のある南側までのトレッキング、2日目は島の北側へのバス旅行という計画である。かなり歩くのでいつもは使わない多少丈夫なスニーカーを履いていく。これはもともとは野崎島に行く時購入したものである。

礼文島に行くという話を家族同僚にする。家族からはやたらとクマの心配をされる。礼文島にはクマはいないから大丈夫だよといってウェブページを見せようとするが、折悪く5月ごろクマが泳いで礼文島に来島したのではないかという疑惑を知らせるニュースがヒットする。うん。まあ、心配ないよ、としておく。

自分の職場には「夏は忙しくない」という伝承があるのだが、それが嘘だということを思い知らされているうち、なんだかんだで旅行の日となった。

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【DAY1 9月3日】

飛行機は羽田から10時30分ごろ飛び立つ。稚内空港には12時過ぎに到着する予定である。

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羽田から稚内はほとんどあっという間である。音楽を聴きながら寝ていたらもう到着していた。現地では独特なキャラクターがお出迎えしてくれた。

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なるほどね。

かくして稚内空港までは楽についたのだが、実は稚内市街と稚内空港はそれなりに離れている。そこで市街地行きのバスに乗るわけだが、おあつらえむきに空港と市街地の直行便、しかも最北端の宗谷岬経由で観光までできるという至れり尽くせり系バスが存在する。使わない手はない。

バスの途中、北海道的としか言いようのない風景を目の当たりにする。

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茫漠。ただただ茫漠。サロベツ原野というらしい。時折風力発電の風車があるが、それ以外は何にもない。途中、眺めがいいということで五分ほど停車する。降りるとほのかに動物のフンの匂いがする。自然。いや、大した自然ではないはずである。何しろ舗装道路が通っている。それでも思うところはある光景だった。

そうこうしているうちに宗谷岬に着く。

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最北端の地だからといって、特に何かあるわけではない。

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とはいえ来たんだなあという感慨はある。サイダーを飲みながら海を見る。海の先には樺太がある。いつか旅行に行きたい場所の一つである。稚内から船でいけるらしく、手軽にいけるなら今回行こうとも思ったのだが、手続きがいろいろあるらしく断念した。いつか巡り合わせで赴く機会があればいいなと思う。

 

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1日目の途中ですが、疲れたのでこの辺で。

 

 

不定期日記

【仕事について】

相変わらず石油王にはなっていないので出勤している。大まかな予定では今年は秋冬からが特にやばく、一度やばくなったら3年ぐらいはずっとやばいという悪夢のようなスケジュールになっているのだが、なぜだかわからんが現状すでに仕事がしんどくなってきている。おかしい。何かが間違っている。一緒に働く人も(上司含め)全員そう思っている節があるが仕事柄どうにもならない。ともあれ辛いのは嫌なので、仕事を少しずつ前倒ししたりしながらぼちぼちやっている。大学生の私は絶対こんなに働くと思っていなかっただろう。だが、なんとも恐ろしいことに、それでもTSUTAYAのバイトよりはマシである。

 

【食べ物について】

労働で脳がスポンジになっているのでここ最近のいい記憶はほぼ飲み食いがメインとなっている。

少し前は鹿児島に行った。当然観光ではないので、食い物だけが楽しみである。

1日目は移動が多かったので、居酒屋に入ったのは9時前頃。地元民向けの居酒屋に入ろうといろいろ歩き回って見つけたところなのだが、入った瞬間に「ラストオーダーだから最初に全部注文してくれれば…」とのこと。二軒目もありうるかと考えて承諾し、適当に、自分としては少しすくなめに頼んだ、はずだった。

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写真ではわからないかもしれないが無茶苦茶量が多い。唐揚げは一個一個がでかいし、付け合わせの野菜は2、3人前のサラダくらいはある。鳥刺しもおばあちゃん家の如き量である。 そして何しろうまい。揚げたてのさつま揚げは全然別種のうまさである。さつま揚げは揚げ物なのだという事実を思い知らされる。ビールが進む。このほかおでん、串焼き数本、生ビールは二杯飲み、お会計を頼むと2600円であった。最高すぎる。お腹いっぱいになったのでそのままホテルに帰った。

二日目は定番をおさえようということで、「むじゃき」のしろくまを食べ、夕食は「吾愛人」に行く。

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しろくま、ふつうにカップアイスのイメージしかなかったが、実物のかき氷としての美味さに驚く。ふつうにふわふわじゃん。そして安い。1人前のベビーサイズだと510円である。東京のしゃらくさ系かき氷が一人平均1000円は召し上げてくることを思うと破格である。

しろくまを食べた後天文館のあたりをふらふらし、頃合いを見計らって居酒屋に行く。

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何を食べても水準以上だったが、1枚目の首折れサバが特に美味しかった。この日は酒も3杯ほど飲み、他にもカツオなどをお願いして、5000円くらいだった。食べているものを考えるとだいぶ安い。が、払いつつ、昨日の居酒屋が鹿児島でもかなり安いところだったのかもなあなどと考えていた。

地方に行く機会が多いと食事は非常に楽しい。昼食でも黒豚トンカツを食べたり、とり天そばを食べたり、非常に充実していた。そば屋は都市部から離れたロードサイドの地元密着チェーン店だったのだが、ピークを少し過ぎた昼下がり、客も店員もおばあちゃんばかりで、通用口からお盆にそばを載せたおばあちゃん達が続々と射出されて行きこれまたおばあちゃんの待つテーブルにドンドンと着弾して通用口に帰還していく様子はなかなかユーモアのある光景だった。また1日目は宮崎にも行ったが、そこでは霧島酒造のレストランで昼食を食べた。雰囲気がとてもよいレストランで、料理も美味しく良い思い出になった。ただし最悪なことが一つあった。仕事なので酒が飲めなかったのである。むちゃくちゃ充実した焼酎の試飲スペースがあるのにだ!!!!!

ちなみに余談だが、鹿児島空港は最高なのでカードラウンジに焼酎の無料試飲スペースがある。

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というか、鹿児島は全体的に何が何でも焼酎を飲ませようという雰囲気にあふれていた。九州はいいところがたくさんある。

 

【買ったものについて】

キャンベルズパーフェクトティーを職場で飲んでいる。印象としてはキャンベルズパーフェクトふつうティーという感じで、これといってクセもなく使いやすい茶葉である。イエローラベルなんかが好きな人は気にいるだろうと思う。どちらかというとアイスとかミルクティーとかにした方が向いているような気がするが、ストレートでもそこそこ美味しい。茶葉にお湯を注いだ瞬間はものすごくいい香りが立つが、飲む頃にはそれがどこかに行ってしまっているのが悲しい。これは私の鼻が詰まっているだけの可能性もあります。

現状職場で飲むお茶として最も美味しかったのはマックウッズ(200g1700円程度)で、結構放置していても飲めないほど渋くなったりしないというマジックのような茶葉である。二番目にキャンベルズが来る。一時期100g3000円くらいのダージリンを会社で飲んでいたときもあるのだが、正直会社のお湯は温度が低めだし、そもそもゆっくり味わうという気分になれない場合が多いので、オーバースペックだったように感じた。その点英國屋の有機ダージリン(80g680円くらい)は値段の割に味がよく、会社でダージリンならこれくらいが気軽だなというちょうどよさがあった。そのほか、成城石井とかの茶葉はなんだかんだしっかりしているが、たくさん飲むと気分が悪くなった。まぁこれは辛い時期に飲んでいたせいもあるかもしれない。実はデイリークラブなどをまだ試してないので今後はそちらの方向も試してみたい。

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UKサイズのパイントグラスを(結局)購入したが、非常に気に入っている。

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HUBなどでよくパイントビールを頼むとだいたい800円から1000円くらいは取られるが、家だと半額以下で済むのである。最高である。最高だが、店でも飲みたい。

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読書はほとんど進んでいない。昔村上春樹が何かエッセイかなんかで「仕事に必要な本は本当になんとかかじりつくようにして読んでますが…」みたいなことを書いてたという記憶があるが、気持ちとしてはそんな感じで、仕事関連以外の本はほとんど読めていない。いま並行して読んでいるのは「宇宙船とカヌー」「ドライブイン探訪」くらいだが正直スピードは低調である。電車でもスマホばっかり見ている。いかんと思ってスイッチを切り顔を上げるとみんなスマホをいじっている。現代人はスマホと労働で脳がスポンジになっているのだ。

ゴールデンウィーク直前に出たIUTeichの本は、興味があったので割とすぐ読み終わった。面白いのだが、現状だとどことなく政治文書的側面も少しあって、あんまり人に勧められない本である。一番の問題は当の論文がまだ斯界で受け入れられるところまで来ていないことで、色々調べるとどうなるんだろうというぐらぐらした気持ちが出てくるが自分にはどうしようもない。全然わからない、俺たちは雰囲気で数学書を読んでいる。しかし仮に論文が間違っていたとしてだが、最終定理関係の本など見ても間違った論文というのはだいたいすぐ間違ってるという話が出て終わりになるところ、今回の場合プロでも「合っている」という人が一応少しいて、それが自分には珍しく感じる。そういうこともあるんだなと。とはいえ結局何もわからない。わからない、わからない、わからない…。

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今日はこのへんで。