天気の子に関する覚え書き

「天気の子」を見た。前作はエンタメとしてとても面白かったけどまあフーン、ウケるねって感じで特になんともなかったのだが、今回はなんかいろいろ不穏に感じるところも結構あって戸惑っている。なぜか職場やらでめちゃめちゃ感想を要求されているが正直困る。ということでここに少々感じたことをまとめておく。全部妄想です。

 

ネタバレ満載なので未見の方は引き返すように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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セカイ系、なのか】

できるだけ前情報を見ないようにことに当たろうとしたのだが、どうしたって多少目につく。見たのは「エロゲーっぽい」とか「セカイ系」とかそういう形容。「エロゲー」はまだわからんでもない。でも少なくとも「セカイ系」ではないと思う。モノローグでは「世界を変えてしまった」みたいなことをよく主人公が言っていたが私見ではあれはレッドヘリングみたいなもんである。

例えば、そもそも雨が降っているのは東京一帯だけだし、天気を変えるのも東京の中のごく一部である。天気図やらわざわざ地球全体のシーンやら出てくる(地球が出てきたときはちょっと笑った)が、他の地域は全然別に何にも起こっている様子はない。普通に晴れてる。世界は東京か?事実としては違うだろうが、別にそう考えても悪くはない。でもそれなら「お前は別に世界を変えてない、もともと狂った世界だったんだ」(大意)みたいなことをわざわざ大人に言わせる必要があるのだろうか?

セカイ系といっても別に定義がきちんと固まっているわけでもないし、全世界的な問題を解決するだけがセカイ系の話でもなさそうだ。だけど、モノローグで「世界を変えてしまった」とかいってるとか、天気を変えるという能力とかを理由にセカイ系とするにはなんか理由が足りないような気がする。いや、もっといえば、そもそもセカイ系というのはどうでもよかったのかもしれない。全然別のモチーフがあったのではないか。

 

【自由】

正直言って、冒頭からすごく不穏な空気を感じていた。まず家出した主人公は船の注意指示を守らず死にかける。あてもなく東京に行き、ホームレス状態になる。普通に行ったらそのままヤバイコースに突入するだろうところで、自ら連絡を取った船での「命の恩人」に助けられる。高校生なのに働く。ヒロインを助ける、銃まで撃って。

今思えば、冒頭から不安だったのは、結局のところ、主人公が社会からほとんど疎外されているところから来ていたのかもしれない。何をされてもおかしくない、紐帯のない存在に不安定感を覚えていたのかもしれない。でも最終的に、疑似家族的な共同体を見つけ、仕事もし、身なりもよくなり、こういって良ければ、いわば「社会復帰」していく。

ここでのポイントは、上記のほぼ全ての点において、「主人公自らの意志と行動の結果として」物事が動いていくところである。そもそも家出自体が自分の意思での行動である。注意指示を守っていたらおっさんには合わなかった。困窮しているときに助けてくれたのも、おっさんと偶然再会したのではなく、自分から連絡したからだ(それもわざわざ事前に電話でアポまでとって!)。仕事も自分で探している。ヒロインも偶然助けたわけではない。一飯の恩義を覚えていて、自分の意思で助けている。自分の意思でやったから、ちゃんと後悔もする。

なんか現実に置き換えたら普通の話にも思えるが、作劇上は全然そんなことはない。「君の名は」での出会いは、主人公二人の意思はほとんど介在していない。ある意味で、「運命」によって、出会っている。関係性も否応なく築かされている。ほとんどの行動は「呉越同舟」的シチュエーション下で行われ、会いにいくとか、そういう具体的アクションを起こすのは関係性が進展してからだ。これはある意味でエロゲーに近い。幼馴染、学校の先輩、といった関係性を想起しよう。ヒロインが与えられるのは設定によってであり、主人公の意思によってではない(もちろん全部のゲームがそういうわけではないが)。天気の子ではそうではなく、さまざまな点で意思が介在している。

そして意思をもとに行動するとき、社会や法や倫理といった、そういった規範的要素はすこし背景に退いている。だって、そうでなかったら、銃とか普通撃つか?

本来16歳という年齢は、そうした自己決定をそれほどしなくてもよい、あるいは厳しく禁じられている年齢である。同年代のそうしたありように比べて、主人公の行いは異様に意思的で、こういってよければ、自由である。

はじめの困窮したシーンにしたって、家出という自由の代償である。法からの自由(犯罪行為)によって、主人公は警察に追われる身となる。そもそもヒロインが消えることになる遠因でさえも、「天気を売る」という主人公発案の商売である。ヒロインが消え去る前の決定的な一言も、主人公が自ら言っている。意思の結果によって道をひらき、意思の結果によって罰せられる。これは現実の自分たちと比較しても顕著なほど自由である。

この「自由」を重視する描写は大小含め全編に及んでいると私は思う。例えば、主人公がヒロインに渡した指輪のデザインは翼だ。なんでわざわざ?ヒロインの弟は主人公に言う、自分が小さいから姉には苦労をかけている、だから、少しくらいは青春ぽいことさせてやりたいんだ、と。プレゼントは指輪がいいというアドバイスも与える。ふつう指輪は恋人関係、婚姻関係…要するに社会的関係の象徴だ。なのにわざわざ、なんで指輪に翼のデザインを選ぶのか?翼は自由の象徴だからだ。

 

【手錠】

個人的にもっとも印象的だったシーンは、ラスト空中から落ちていくところで、ヒロインとの間に手錠を使わないところである。正確にいえば、手錠は引き寄せるためだけに使われ、手錠本来の拘束具としての使用はされない。私は使うのかなと思いながら見ていたが、よく考えたら使うわけがない。なんで自由がここまで一貫して描写される映画の、まさにクライマックスのシーンで、わざわざ手錠をもってヒロインとの結びつけを強固にするのだろうか?全部台無しだ。そこには、陽菜の意思が介在しない。それではダメなのだ。ふたつの手で手繰り寄せて、自分の手だけでつかんでいなければならないのだ。たとえ助けに手錠を使おうとも、最後には、結びつきを維持する手段は自分たちの手でなければならない。この辺りはちょっと感動的だった。

そしてシーンの最後で、主人公は言う。「自分のために願え」と。翼の指輪をあげるんだから、そう言わなければウソである。

 

【社会に背を向けること】

最後、東京が水没してしまったという点をもって、社会に背を向けて…みたいな含意があるとするコメントも見かけた気がする。そうかもしれないが、でも「世界はもともと狂っていた」のだし、狂った世界の狂った生贄制度をやめとけというのはわりと観客側からは受け入れやすく、そこまで背いてもないんじゃないのとも思う。劇中の東京も別に水上バスで通勤してるらしいし、そもそも日本列島は広いのだから東京だけ異常気象がやばいんだったら首都移転すればいいだけの話である。自然と社会の問題で、別に主人公とヒロインが介在する必要はない(セカイ系ではないんじゃないのと思うのはこの辺の事情もある。)むしろ「社会に背を向ける」という点からみて最もラディカルなシーンは、クライマックス直前の、廃墟のビルにおけるシークエンスである。

 

【愛にできることは(生きている限り、常に)まだある】

最後、オルフェウスみたいに天上へ陽菜を助けに行くシーンは、まあ言ってしまえばファンタジーで、その後も結局助かってよかったね、3年経つとみんな落ち着くとこに落ち着いたし、みたいな感じになっている。でも考えてみると、陽菜は天上にいて(≒死んで)、主人公は陽菜の元へ行かせろといい、警察やらの妨害も切り抜けて結局天上に行くわけである。ここから示唆されるのは、死んだ愛する人の元へ自分の意思で赴くということの話‥…要するに自裁の話である。自裁の権利の話は尊厳死などの話題を出すまでもなく、議論だらけであるし、究極の自己決定権、究極の自由の話といってもいい。愛する人を失い、取り戻すために、その人の元に行きたいと叫ぶ少年に対して、警察は、近しい人は、何ができるのか?少なくともこの作品では何もできていない。警察(お望みなら社会でも、法でも倫理でも、なんといってもいいが)は、ただ逮捕を試みて失敗する。近しい人(お望みなら友人でも、家族でも親族でも、なんといってもいいが)は、はじめ説得するが、最終的には本人の希望に寄り添うしかない。失われた人の親族は「返せ、お前のせいだ」とまでいう。結局主人公は天上に行く。廃墟のビルの屋上からジャンプすることによって。足元にはお彼岸のキュウリとナスがある。救われるのはただファンタジーの思し召しだからだ。

監督本人が「怒らせる」とか「賛否がある」とかいうのが何を指しているのかは正直わからない。ここで書いたことも妄想だと思う。でも、仮に「社会に背を向ける」ということをテーマにする(そういうインタビューがあったと記憶している)のであれば、行き着く先は二つしかない。社会そのものを破壊するか、社会と自分との関係を全く断ち切るかだ。社会を破壊しつくすことなんてできない。人間として生を全うする限り、社会との関係を全く断ち切って生存することなどできない。さて、強い絆で結ばれた、愛する人がもういないとしよう。ただの個人に取りうる選択肢はなんだろうか?

 

野田洋次郎も歌っている。

 

君がくれた勇気だから 君のために使いたいんだ

君と分け合った愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

愛にできることはまだあるかい

僕にできることは まだあるかい

 

だから愛にできることは、生きている限り、常に、まだあるのだ。

 

【以上を踏まえた感想】

・面白かったけど不穏な気分になりました。

 

【その他の思ったこと】

・「君の名は」の登場人物が出てきてたけど、そうなると作中の年表大丈夫なのだろうか?「君の名は」のラストシーンは晴れていたが、三年後という発言と整合性が取れるのだろうか?瀧くんはまだ就職してなさそうだったし(なにか見逃している可能性はめちゃめちゃ大いにある)、三葉はアパレルで働いていたが既に再会している感じでもなかった、ような気がする。時系列的に一番シンプルなのは「君の名は」の二人が再会した後の話とすることなので、気づいてないだけでそういう描写があった(もしくはそうした可能性を排除する描写がなかった)かもしれない。まあ多分ただのサービスなのでこんなん気にするだけ無駄だしただの揚げ足とりだが‥‥‥。

→後で考えたら、三葉の同級生の結婚シーンが(多分)あったのでふつうに再会した後の可能性ありますね。自己解決しました。

・登場人物が飲む飲料が全部サントリー製で、少なくとも飲料業界には世界の終わりが到来していることがわかる。

・描写もスポンサーだらけで、監督も大変だろうなと思う(あとウケる)。劇中のチャーハンをローソンで売っていたが、味はともかくこれはけっこう最悪な趣向だと思った。綾波とアスカが仲良くエナジードリンク飲んでるみたいなもんである。自由資本主義だから…とかいって上の話と絡めると最悪な感じになってくるしパラノイアっぽいのでもうしない。

 

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終わりです。万が一2回目見たら追記もあるかも。