逝きしブログの影


 このブログは高校一、二年の時くらいからはじめているわけですが、バルスとかいってはしゃいでたウンコ学生の僕もいよいよ年貢の納め時、今年から労働者です。あれから何年たった。えっ。6年。マジかよ。小学校卒業してまう。こんだけ長ければインターネットでいっぱしの地位を築いていても良いと思うんですが、なにしろ更新するのが「明けましておめでとうございます」だけなんだからそりゃあ今でも木っ端ブログですわ。クソめ。ぶっちゃけ自分のインターネットってそんなのばっかりで、Mixiとかのコミュニティ設立時とかを見ても平気で2006年とか書いてあるんだから正直引いてしまいます。俺、今まで何してたんだろう。


まあしかしこうやって曲がりなりにもちょくちょく更新しているわけでして、リンクを張っている友人のブログがことごとく仮死状態なのを見て俺はまだましと思ったりお前ら更新しろと思ったりするわけです。なんだ。twitterか。生存確認はできるし、短文ネタなら投稿できて反応もすぐ返ってくるし、頑張れば少し長いネタも構成できたり。いいね。お前らほんとSNS好きな。140字な。俺も好きだ。しかしだ。夜中の4時に突然よく知らねえカードゲームのクソながい考察が流れてきたら一体どんな気分だ?キモイな。そこまで行かずともまあ大抵無視だ。どうせ無視されるならこっそりやりましょう、と考えてもよいのではないかね。


最近すこしずつ更新するようになったのはそういう発想が一つ。あとは、やっぱり少しずつでもやらないと言語使うのが巧くならないし、このごろは特に書きでも話しでも上手に流れが構成が出来なくなってきて、これはやばいと思ったのも一つ。最近書いた卒業論文読みたくないもの。教授がかわいそうである。飲み会でも面白話が出来ない(これは面白い事を俺がやってないという事もある)。ううう。全部twitterのせい。何が140字だ死ね。日頃断片的にしかやってないからたまに長く文章を書くと変な気持である。俺の日本語が根本的に間違っているような気持ちと、もっと簡単に、もっとスマートに、もっと面白く書けるのではないかという疑念が俺を襲う。恐ろしい。まあそんなのはほっておいて、ほぼ誰も見てないし、適当にやると決めております。あと3年ぐらいで、少しはかっこいいやつができるようになる、といいな。俺は良い文章が書きたい。


高橋源一郎は刑務所に入れられて失語症になって、おぼつかないふるえる手でリハビリを始めて、やっとのことでかけた最初の文は

「このティーカップすてきねえ」
「うん」
「ほんと、いいティーカップだわ」
「そうだねえ」
「何か、いいのよねえ、このティーカップ

というものだったそうな。「さようなら、ギャングたち」は本当に泣ける傑作小説だと僕は思ってるけど、そういうイカす作品もこういうところから出発したんだなぁ、と考えると、襟を正して頑張ろうという気持ちになる。勇気。読書も並行してやらなきゃならんのですがね。当然。


チェスタトンのブラウン神父シリーズを読んでる。面白い。原語が日本語の作家を読まなきゃいけないけど、先送り。「介護入門」が欲しい。今度探しに行く。