lain,オーウェル,系譜学


レインを全話通してみた。思いつきのメモを残す。

lainは系譜学の否定

系譜学という言葉は永井均の「解釈学、系譜学、考古学」でしか知らない。

lain中にでてくる主張の「きおくなんてただのきろく」「いやなきろくはかきかえればよい」は、記憶=記録を書き換えれば過去の事実も変わったことになる、というものだが、これは系譜学の否定…というか、解釈学=事実である、というもの。
でも実際はそんなこと無いので、どこかがおかしいのだが、見てるだけだといまいちわからない。

動物農場の中での解釈学/系譜学

動物農場に出てくる大部分の動物は、豚の示す解釈=言葉に盲従している。他の動物は言葉=文字が達者に読めないから、はじめに理念として掲げられたものがいつの間にか勝手に書き換えられていても、(違和感は覚えるものの)しかと反抗する事が出来ない。唯一インテリのロバだけが書き換えられている事を知っている。
恐ろしいのは、大部分の動物が、直接経験したはずの戦争の経験ですら、後の豚による解釈によって歪められ、書き換えられていくことだ。ロバ(と読者)は知っているが、動物を助けることはしない。
この動物農場では、解釈学と系譜学がともに存在しているし、その実際の存在の在り方が示されている。解釈をするもの…「いやなきろく」を「かきかえていく」ものは豚であり、豚は独裁者である。

・系譜学をしない者
系譜学は煎じつめれば、きちんとテキストを読む、とか、ちゃんと事実関係を追う、というなんだか単純な事だ。解釈と実在の間にくさびを打ち、いつからそのように解釈されるようになったか、を問う系譜学は、疲れるしんどい作業だ。めんどくさい。しかしそれをしないとどうなるかというと、支配されるだけ。

lainの説得性の起源
lainの主張は、「系譜学は成立しない」というものだと考えられる。その主張について実際の状況を想起する時に出てくるのは、自分たちが単に「系譜学をしていない」というだけの状況なのだ。lainの主張を担保する事実は動物農場に出てくるような記憶の可塑性であるが、そこから系譜学は成立しないという結論は本来出てこないはずだ。

記憶は記録である。記録は書きかえられる。だが書き換えたという記録はどこかに残る。その記録を消しても、またそれを消したという記録が残る。そして一番問題なのは、書き換えたという記録が残っているのは書き換えた当人であるということだ。当事者が生きている限り永遠にフレーンは現れない。
自分で自分を消し、本当に無くなってしまったら、無くなったという事すらわからない。
話が成り立たない。物語を成り立たせているのは解釈学ではない。

・インターネットにおける解釈学/系譜学
lainはインターネットによって解釈学が系譜学を打ち倒す風景を描いているが、実際はどちらかというと、解釈学がインターネットによって打ち倒されているように感じられる。


わかりません。
もうちょっとなんかあったと思うけど忘れました。