デブの器

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摂取カロリーの多い生涯を送ってきました。


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かつて東京オリンピックのマラソン競技において銅メダルを獲得した円谷幸吉は、その悲劇的な自殺の際、以下のような文句で始まる有名な遺書を残した。


父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。…


もし彼が今の私のような食生活であったらなら、彼の遺書はこんな風になっていたに違いない。


父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。焼き肉、ハンバーグ、カレー、ハンバーグカレー、天丼、焼き肉サラダ、ミラノ風ドリア、ソーセージとポテトのグリルも美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし、お刺身、鶏のから揚げ、ウニのおにぎり、いくらのおにぎり、しゃけのおにぎり、たこ焼き、焼きそば、イカ焼き、かき氷美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ポテトチップス、じゃがりこチーズ、じゃがりこサラダ、ハイチュウ白桃味、チョコレート、出所不明な黒いアメ、北海道花畑牧場の生キャラメル美味しゆうございました。…


銅メダルどころの話ではない。


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私の身長はちょうど180センチであり、今となってはこれはもうあまり伸び縮みしないのであるが、私の体重は現在もなお激動の人生を送っている。それも太る→痩せる→さらに太るというのではなく、太る→さらに太る→もっと太るというコースである。リバウンドは理解できる。作用反作用の法則が働いているのである。丁度スーパーボールを地面に思い切りたたきつけたような感じであろう。しかし今まさに私の身に降りかかる現象は一体どういうことであるか。スーパーボールを何気なく空へ投げたら落ちてこなくなったというのと一緒ではないか。完全に物理法則をぶっちぎっているではないか。韮澤さんならばこれをUFOによるものだと強弁するであろう。大槻教授はすべてプラズマのおかげだと説明するであろう。

私が太る原因はUFOかプラズマかのどちらかである。


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かつても私は肥満であった。小学校時代の私の顔はさながらマリオに出てくるキノコが膨れ上がったような風貌であった。しかし人は変わる。私は中高で身長が伸び、おなかの肉が目立たなくなった。いつの間にかデブとは呼ばれなくなった。小学校の頃の友人は私の変貌に驚いたものだった。そして今、私はまたしても着々とデブになりつつある。永劫回帰である。キッズ・リターンである。俺の肥満、もう終わっちゃったのかな。バカヤロウ、まだ始まっちゃいねえよ、だったのである。これについて一言述べるならば、正直終わってほしかった。


私はこれからどうなってしまうのか?マリオ的キノコに逆戻りするのだろうか?それともまた何か別のネオ・デブにジョブチェンジするのであろうか?未だに先は見えず予断を許さない状況である。


どのようなデブになるか?これは重要な問題である。ほとんどのデブは一生のうち半分以上をデブとして過ごすのである。デブ的アイデンティティの確立はQOL(クオリティー・オブ・ライフ)の観点からも非常に重要視されるべき課題であろう。ここで私の理想像、どのようなデブ・アイデンティティを確立したいかについていささか語らせてもらうならば、私はハードボイルド・デブになりたい。多くは語らず、黙々と料理を平らげ、嘲笑や罵倒には皮肉で応じ、糖尿病にも負けず、高コレステロールにも負けず、心筋梗塞動脈硬化にも負けぬ、丈夫な体を持ち、東に料理が食べきれなくて困っている人があれば、行って平らげてやり、西に大食いの店あれば、行って平らげてやる、そういうものに私はなりたい。いわばデブ界のフィリップ・マーロウである。時折寄せられるデブ的依頼(残飯処理等)をこなしつつ、「ごちそうさまにはまだ早すぎる」「おなかいっぱいということは、少しだけ死ぬことだ」等のセリフを呟くのである。痛快である。


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ところで、食べすぎのデブには二種類ある。優しいデブと、身勝手なデブだ。これは単に性格の違いというだけではない。発生の過程とその後の変遷は全く別の路線を辿るのである。


優しいデブと身勝手なデブはそれぞれ別の道からデブにいたり、また脱却する。身勝手なデブは自分の強欲さからデブになる。食欲のままに飲みかつ食べ、その結果太るのである。このような人種はその一生のほとんどをデブとして過ごすのであるが、自業自得であるから同情の余地はない。

それでは優しいデブとはどのようなものか。両親や兄弟の残したのを食べてあげたり、「食べる?」といわれて断れなかったりしてデブになるのである。優しさは肉としてどんどん腹にたまってゆく。気がつけばデブの出来上がりである。環境が変っても、「デブ」ということで残飯を押しつけられたり、キャラクターがそういう風になってしまっていて後に引けなかったりして、結局デブのままである。終いには本当に胃が大きくなってしまう場合も少なくない。彼をデブにしたのは環境である。これが悲劇でないとしたら、いったい何なのであろうか。

そして今、健康志向まっただ中の現代社会、デブへの迫害は前にもましてエスカレートしている。メタボリックでは生きている価値がなく、デブには社会にでる資格はないと言わんばかりである。優しいデブも、身勝手なデブも平等に差別されている。私にはそれが悲しい。優しいデブにこの仕打ちは、あまりに過酷ではないか。
嗚呼、いつも十字架を背負うのは心優しきものだ。柔和なものよ、汝の名は肥満なり。いつの日かハードボイルド的デブになった時、僕は慰めてやりたい。優しい小太りの少年を励ましてやりたい。僕はこう言うだろう。そっと。でも力強く。なぁ、少年、



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「強くなければデブにはなれない、優しくなければデブになる資格はない。」



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丁度腹が減ったのでこれで。