祖父の思い出話を少々


祖父は3年前の3月8日になくなった。73歳。八十余歳が平均寿命であるいまの時代だから、とても大往生とはいえないだろう。祖父が危篤に陥ったとき、僕は後輩の卒業式の打ち上げに行っていた。前々から「危ないぞ」とは聞いていたし、身内も皆覚悟はしていた。しかしなにもこんな時に危篤にならんでもよかろう、と思った。結局僕はその会を途中で抜け出し、迎えにきた父さんの車で東京の郊外にある病院へ急行する羽目になった。そしてその車内で祖父の訃報を聞いた。死に目に立ち会えたのはばあちゃんのみで、息子である父も、孫の僕も、祖父の最期には立ち会えなかった。


葬儀の準備は粛々と進んだ。前から下準備をしていたのでほとんど滞りはなかった。式は3月11日に開催されることになった。僕は葬儀に合わせて前倒しして買っていた大学入学式用のスーツを旅行カバンにしまって箱根へと旅立った。「ほとんど」という言葉が付くのはこれが理由だ。僕は高校の同級生と旅行の計画を立てていたのだが、それが祖父の葬儀とかぶってしまったのだ。結局僕は無理を通し、旅行に一日だけ参加して、途中でとんぼ帰りし、そのまま葬儀に参加する、という行程をとった。


そうして祖父の葬送は慌ただしく、しかし着実に完了して行った。棺桶に入っている祖父がヒゲを生やしているのを見て、死後もしばらくはヒゲは生え続けるんだよ、という得体のしれない豆知識を弟に話したりしていた。通夜では寿司をたらふく食べさせられた。その頃はまだぎりぎり未成年で酒は飲めなかったので、ビールを進めてくる親戚たちに少し困った。翌日、祖父の遺体は焼かれ、残った骨たちは小さな骨壷に納められた。祖父の骨は太く、丈夫で、喉仏も綺麗に残っていた。葬儀の間しきりに涙を流していたばあちゃんは、「骨は本当に丈夫だったんだねぇ。本当に肝臓だけがねぇ…」と言ってまた涙を流した。


祖父の直接の死因を僕は良く知らないが、祖父が晩年肝臓で苦労していたのは良く知っている。原因は単純明快で、酒だ。祖父は筋金入りのドリンカーだった。毎日酒を飲む。肝臓が悪くなってからも、量と頻度は少なくなったが、それでも飲酒を辞めることはなかったそうだ。ある日の夕方突然ふらっと家をでたまま帰らなくなって、心配したばあちゃんが方々をかけずりまわって探してみたら、結局家の近くの寿司屋で上機嫌になっていた、という話もある。僕が覚えている生前の祖父の姿は、僕たち兄弟や父さんを相手に将棋やオセロを打っている姿と、趣味で集めているコインを眺めている姿と、夕食のときに酒を飲んで野球を見ている姿の三つだけである。それも最晩年は痴呆の症状が出始め、最終的には最後の一つしか見られることはなくなって行った。少し寂しかった、といえば、そうだったのかもしれない。だけど、いまから遡って当時の気持ちを思い出すには、少し時間が経ちすぎている。


祖父が死んでからいろいろなことがあった。祖父の遺したものを整理する作業では様々な発見があった(祖父のコインのコレクションはなかなかのもので、八千円の値で取引されている五十円玉が二枚も出てきた。また、祖父が故郷の長野から単身上京して職人となり、独立してようやく構えた祖父母の家屋の資産価値は3000円と査定された。3000円て)。それにあわせて押入れの整理をしていると、古いロゼのワインが出てきた。僕の生まれた年に作られたもので、初孫(無論僕のことだ)が二十歳を迎えたときに記念としてみんなで飲もう、ということで両親が贈ったものだそうだ。それは結局まだ飲まれないまま、祖父母の家の戸棚に眠っている。僕は当初の希望通りの大学に入り、当初の予想通りに失望した。大学に入ってからも同級生との半年に一回旅行する習慣は続き、かれこれ六回目を数えるようになった。今年の三月には大きな地震が起こった。奇しくも祖父の葬儀の日に起こった大震災を、僕は酒屋で迎えた。ワインの瓶がそこかしこで血だまりを作っている壮絶な店内の中で、僕は店員さんに頼み込んで飲みたかった日本酒を売ってもらった(そして両親や恋人に呆れられた)。祖父の死後、成人した僕は良く酒を飲むようになっていた。飲み会では進められる前に勝手にビールを飲んでいる。部屋には焼酎とウイスキーが常備してある。気が向いたら飲むが、毎日は飲まない。肝臓はいたわるようにしないといけない、と心がけている。そうして大学生活も半分以上過ぎ、いよいよ就職活動の季節がきた。


先日のことだ。僕は夕食をあらかた食べ終え、残しておいた豆腐で焼酎を飲んでいた。対面では父が遅い夕食をとっていた。ふと、就活の話題になり、お前はどんな業界を受けるのか、と父が僕に聞いた。正直な話、決めかねていた。なので、酒が好きなので、多分酒類メーカーを受けるだろう、という風に答えた。
「例えばどういうとこ?」と父は重ねて聞いてきた。
「んー、サントリーとか、ニッカとか」
「キリンは?」
「受けるよ」
「アサヒとかも?」
「うん、だろうね」
適当すぎる僕の返事に苦笑しながら、父がいった。
「まさかこんな酒好きになるとはなぁ…。じいちゃん生きてたら、どんなに喜んだろうなぁ」


あぁ、じいちゃんはもういないんだよな、とその時初めて気がついた。


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どうもお久しぶりです。オチはありません。お後がよろしいようで。