何故哲学科の就職率は低いのか?

こんばんは。今日は哲学の話でもしようかなと思います。たまには哲学の学生っぽいとこを見せてみようかなと。といっても「実存哲学〜」とか「ヴィトゲンシュタインが〜」みたいな話じゃありません。そんなことできない。見てる人の中にもそういうことに恐ろしく詳しい人がいそうだし、なにより下手な話をすると現存在お化け(こんなの→⊂(・×・)⊃)が出てきて僕を苦しめます。ああ怖い。なので、ある有名な思考実験の話をします。とっつきやすいし。粗雑な論理ですが、面白がってくれれば僥倖。


その思考実験というのは、「世界五分前仮説」です。まとめサイトとかの話題でもたまに出てくるし、多分聞いたことあるでしょう。ざっくり言うと、

『 

世界「俺っち実は五分前にできたばっかなんだけど、今までずーっとあったみたいな顔して出てきたからお前らはそのことがわからないんだぜフゥーハハハ」

みたいな感じですか。いや間違ってる気がする。まあいいや。とにかくウィキペをコピって来たので読んでみてください。はい。

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世界五分前仮説(せかいごふんまえかせつ)とは、「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説のこと。

哲学における懐疑主義的な思考実験のひとつで、バートランド・ラッセルによって提唱された。 この仮説は確実に否定する事(つまり世界は5分前に出来たのではない、ひいては過去というものが存在すると示す事)が不可能なため、「知識とはいったい何なのか?」という根源的な問いへと繋がっていく。

たとえば5分以上前の記憶がある事は何の反証にもならない。なぜなら偽の記憶を植えつけられた状態で、5分前に世界が始まったのかもしれないからだ。以下、ラッセルの文章。

世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである

ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)

「この木は芽が出てから今年で12年になる、だから年輪が12本ある」 このような言い方も日常でもよくするが、年輪が12本あるという事実を「結果」とみなせば、これに対応する「原因」が位置すべき過去が存在するはずだとは主張し得るものの、このような主張もまた完全に証明することはできない(もちろん反証することもできない)。

これは世界5分前仮説の場合と同様の理由による。


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うーーん。なんかだまされてる気がしますね。「因果律」も実はそうとう怪しい概念(というか、ヒュームが明確に「あんなん妄想だ」みたいなことを言っていたと思います)ですけど、こんな思考実験かましてまでつぶすようなもんかなぁと。あと、確かに論理的に「確実に否定」はできないんですが、「冷蔵庫は空を飛ぶ」というようなことが論理的に可能なのと同じで、論理的に否定する類のもんなのか?という気もしますし。「知識」が過去と独立だからといって、過去がない、というのは論理的におかしいし。うーん。

まあそれは置いておいて、少し真面目に反論してみようかなと思います。さて(と、僕はこの仮説を信じている人に言います)、そもそもなんで君はそのような主張をし始めるの?なにか世界は五分前に始まったといえるような証拠があるの?世界には五分前よりずっと前にあったという証拠に満ち溢れているよ。確かにその仮説に論理的な不整合はないけれども、それだけではその主張は成り立たないよ?なにか証拠を持ってこい!

この書き方は微妙にズルをしています(思考実験なのに、主張にすり替わってる)が、まあとにかく。この反論は科学的な懐疑主義といった感じで、もう妄想禁止、うだうだくだらないことを言ってるんじゃない!という臭いものにはふたをする的反論です。哲学やってて意味あるのかなぁ、と感じることが多いのはこのテの反論に「まぁそうだけどさー…」的なお茶の濁し方しかできないことが多いからだと私は思いますが、閑話休題

五分前仮説がなんとなく胡散臭い(哲学好きじゃないと「はぁ?」ってなりやすい)のは、普段生活してきて「世界が五分前に生まれた」なんて絶対に思えないからです。だっておかしいじゃん。なんで?って感じですわ。そりゃー哲学的には、その思考実験を通じて云々…みたいなのがあるんでしょうけど、そんなことどうでもいいし。


さて、じゃあこのような仮説を考えてみましょう。それはずばり、「世界百五十億年前仮説」。五分前をすごーーーく後ろに持ってって、百五十億年前にしてみました!という単純な変形です。どうでしょう?結構「そうかもなぁ」という感じがするんじゃないでしょうか。だけど、さっきの「世界五分前仮説」と云わんとするところはあまり変わりません。「世界は五分前に、(過去が存在する、という証拠も含め)ぱっと出来上がった」というのが世界五分前仮説だとするならば、「世界は百五十億年前に、ぱっと出来上がった」というのが世界百五十億年前仮説です。結構、ビックバン理論なんかイメージに近いんじゃないでしょうか。わりと「そうかいな」って納得する人もいる…んじゃないかな。でもなんとなくおかしい気もしますね。

多分問題は何分前とかじゃなくて、「ぱっと出来上がった」ってところにあるんじゃないかなと思います。だんだん何がおかしいのかわかってきてもらえてるでしょうか…?要するに、私たちは何も無いところから「ぱっと出来上がる」ってことに違和感を感じてしまうわけです。それは僕たちが普段なんとなく「因果律」に乗っかった考え方で生活しているからだけかもしれませんが。

まあとにかく、いきなりぱっと出来上がる世界なんてイヤですから、なんとか反論してみましょう。証拠をもってこい、証拠を!…といったはいいものの。流石にそんな前のことになると証拠が残ってるのかどうかも微妙になってきます。実際の宇宙論でも、ビックバン仮説なら、ビックバンの超超超超…短い秒後のことはわかっても、ビックバンのまさにその時のことはわかりません。その前には「無」があった、何て言われても困ります。それじゃ百五十億年前仮説とあんまり変わらんじゃないか。無にはエネルギーがあった、なんていったって、じゃーそのエネルギーはどうしたんだ?ぽっと出てきたのか?…だんだん雲行きが怪しくなってまいりました。

じゃあこうしよう。わかった(と、反論したい僕は言います)。そもそも、「ぱっと出来上がる」なんていう考え方がおかしいんだ。五分前だろうが百億年前だろうが、そんなのはまともな想定じゃない。無意味だ。だいたい「ぱっと出来た」なんて言い始めたら、五分前だろうが、1日前だろうが、100年前だろうが、いつでも好きな「〜分前仮説」が作れるじゃないか。そんななんでもありの想定はしなくてよい。もし「ぱっと出来上がった」証拠が出てきたら検討しよう。だから、今考えなくてもいい!

これでとりあえず一件落着…でしょうか?臭いものにはふた形式ですね。さて、以上の意見を認めると、次のことがわかります。すなわち、実証でも、論証でも確かめられないような現実的事実があるかもしれない。もし宇宙が本当に百五十億年前にぱっと出来上がったとして、もしその証拠が永遠に失われてしまったとしたら…、もう永遠に人間は宇宙の誕生の秘密を知ることができません。論証形式では、それは妄言としてとらえられるしかないからです。あるいは、この世界は(MIBのラストシーンのように)何か超超巨大生命体が作ったビー玉の中の模様のようなものなのかもしれません。しかし私たちはそれを知ることはできません。証拠がなければ、発言は妄言だからです。ああ。なんだか不気味ですね。

まとめます。私たちの世界はどちらかです。「因果律が成立しない、(もしかしたら、いきなりぱっと出来上がっちゃったような)世界」「実証でも論証でもわからないような(現実的)事実が存在するかもしれない世界」。なんかどっちもいやだし、なんかどっちもそうっぽいですねぇ。僕はと言えば、この文章全体になんだか嫌気がさしてきました。なんか論理がおかしいけど、うまく言えない。というか初めはこんな結論になるんじゃなかったのに!どうしてこうなった?すごく間違いが多いような気がしています。ぐっちゃぐちゃ。


さて本題です。哲学科の人間がなかなか就職できない理由は、普段こんなことばかり考えているからです。そりゃーできねえわ。分かりやすいね^^^^^。もう寝ます。五分後に世界が消滅していますように!!!!!!!!!(-人-)ナムナム