キーボード慣れてきた

非常に打つのが楽しくてtwitterみたいな短文更新もがんがんしてしまう感じ。ミスタイプはまだまだありますが、キーボードの角度を変えたら何とかなりそう。


実はキーボード、マウスという入力機器の整備の前にモニタ関連をデュアルディスプレイにしておりまして、予想以上に使い勝手が向上しております。非常に楽しい。一万円以下の安ディスプレイですが、あるとないとではだいぶ違う。最近楽しいのはこういうときだけですね。あとは早く深夜のファミレスでどうでもいい話したいですね。

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最近、いまさら「世界の果てとハードボイルド・ワンダーランド」を読みました。


結構面白くて読み始めたらすんなり終わったけれども、そんなに影響力ある本なの?という感じはした。ただ、これは「あまりにも完璧に勝利してしまったがために、かえってそれがわからなくなってしまう」という永井均がよく言ってるような現象かもしれないので、そこらへんはよくわかりません。


セカイ系的な話の筋理解の裏に独我論的な論理があるのはたぶん誰かが指摘しているんだろうけれども…というか今ちょっと検索したら大量に出たんですけど、「私が死んだら私の(今見ているこの)世界は終わる」→「私の死が世界の終わりだ」→「世界が終わるかどうかは私が鍵を握っている」という論理飛躍がセカイ系にはあるのかなと思います。村上春樹のこの小説は、セカイ系的な最後のステップまで行っておらず、むしろはじめの発想の素朴な出発点にきちんと踏みとどまっているように見える。世界が終わっているのは主人公だけで、ほかの人たちはどうということもなく続いていっている。情報戦争うんぬんの話をよく追ってないからそう見えるだけかもしれないが、しかし最終兵器彼女みたいな物理的全地球的カタストロフの可能性は少なくとも扱われてない。セカイ系の元祖みたいな扱いは単に歴史的な経緯から言われているだけなんだろうか。


唐突に伊藤計劃の話を始めるとなんか気持ち悪い感じがしますが、ハーモニーを今考えると、話の筋はセカイ系かなって感じがしますが、扱われている私はぜんぜん違いますな。指示語として使われる限りの意味での「私」と、一般概念としての「私」というか。ハーモニーは「全世界同時多発「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」現象」みたいな感じでしょうか。方法論として、個別の私を一般概念の私と重ね合わせて、一気に消し去って、実際に世界の終わりを顕現させてしまう、みたいな。んで一般概念の私をどう消すかの方法にはキャラクターが二人しかかかわってなくて、それセカイ系じゃん、という。なんかそこらへんちゃんとしなきゃいけなさそうですね。


しかし最近は何読んでも「私」ばっかり出てくる感じがします。そういう本しか読んでないからかもしれん。