弱者たちの権威主義
権威に訴える論証は、ふつうの使われ方のほかに、もっと別な使われ方もあると思う。権威の論証を裏返して使うやり方だ。
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権威に訴える論証は以下のような形をしている。
Aさんが B と主張する。
Aさんに関して何らかのポジティブな面がある。
したがって、B という主張は真である。
こうやって提示されるとほんとクソみたいな論証だ。それはさておき、これを逆用してみる。
逆用のはじめの一歩として、この論証自体をK(権威のKね)とおこう。するとこういう論証ができる。
Kは権威に訴える論証である。
権威に訴える論証は偽である。
したがって、Kは偽である。
この論証自体は論理的に正しい。よって、Kは中身の如何を問わず論理的に否定される。Aさんや主張Bがどのようなものかは関係ない。
この中身を度外視した「K」の否定が逆用の鍵だ。つまり、Bがどのような主張であれ、「AさんがBと主張」し、「Aさんに関して何らかのポジティブな面があ」れば、Bは偽であるというようにできるのだ。これは早い話がポジショントークである。
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論理学の重要なルールのひとつに、命題の内容如何は問わないというものがある。
アババババはゲンゲルである。
ゲンゲルはエーバババである。
したがって、アババババはエーバババである。
という論証は、内容はさっぱりわからないが、論理的である。A=B、B=C、∴A=Cときちんと形式にのっとっている。逆に、
トイプードルは動物である。
チワワは動物である。
したがって、犬は動物である。
という論証は、内容は正しいが、論理的ではない。論理的に正しいかどうかと内容の如何は別問題である。
上の権威に訴えた論証はこの内容を問わない論理の性質を利用していると考えられる。「権威に訴える論証」として認定された時点で、その論証の中身自体はKとして吸収され、省みられることはなくなる。そして権威に訴える論証として認定するには、究極的には「Aさんに関して何らかのポジティブな面があ」れば十分なのだ。内容如何は問われず、かつ使用する条件は緩い。ポジショントークが「最強」なのはこういう事情があるからだ。
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どんな議論にも応用できる「最強」の論証法などありはしない。あったとしたらそれは間違っている。ポジショントークが行っているのは主張の虐殺であり、他者理解の拒否である。もちろんクソみたいなことを言うやつはたくさんいるし、それを権威に訴える論証でおしつけてくるやつは聳え立つクソだ。でも、その反論にポジショントークを行えば、相手とまったく同じ間違った論証方式を採用することになる。気に入らないやつは無視してもいい。対面しているなら最終的には殴ったっていい。ただ、口喧嘩や悪口で相手をやっつけたいと思うなら、ポジショントークだけはしないほうがいい。簡単に使えてどんな奴でもやっつけられる万能の武器を夢見るのは、地味な個別の対処をしない、面倒くさがりの弱い奴だけなのだから。
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追記 14/5/5
「権威に訴える論証は偽である」というのは内容的に正しくない。権威に訴える論証は単に論証法として妥当じゃないだけで、べつに偽ではない。一番問題なのはここだったのかもしれない。