備忘録程度でも更新しないよりまし

初音ミク、ケリをつけとかなきゃなあとおもってぼちぼち聞いています。

初音ミク全然関係ないけど最近ぽっと借りたのだとこれらがよかった。

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泉まくら 「Candle」
アルバムを借りたが全編通してなかなか良かった。
あとこのPVかわいいね。


Piano overlord 「reception」
ギラギラしてる。
カッコいいんだけど朝聞くといささか疲れる。


お里が知れるね!

 キーボード慣れてきた

非常に打つのが楽しくてtwitterみたいな短文更新もがんがんしてしまう感じ。ミスタイプはまだまだありますが、キーボードの角度を変えたら何とかなりそう。


実はキーボード、マウスという入力機器の整備の前にモニタ関連をデュアルディスプレイにしておりまして、予想以上に使い勝手が向上しております。非常に楽しい。一万円以下の安ディスプレイですが、あるとないとではだいぶ違う。最近楽しいのはこういうときだけですね。あとは早く深夜のファミレスでどうでもいい話したいですね。

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最近、いまさら「世界の果てとハードボイルド・ワンダーランド」を読みました。


結構面白くて読み始めたらすんなり終わったけれども、そんなに影響力ある本なの?という感じはした。ただ、これは「あまりにも完璧に勝利してしまったがために、かえってそれがわからなくなってしまう」という永井均がよく言ってるような現象かもしれないので、そこらへんはよくわかりません。


セカイ系的な話の筋理解の裏に独我論的な論理があるのはたぶん誰かが指摘しているんだろうけれども…というか今ちょっと検索したら大量に出たんですけど、「私が死んだら私の(今見ているこの)世界は終わる」→「私の死が世界の終わりだ」→「世界が終わるかどうかは私が鍵を握っている」という論理飛躍がセカイ系にはあるのかなと思います。村上春樹のこの小説は、セカイ系的な最後のステップまで行っておらず、むしろはじめの発想の素朴な出発点にきちんと踏みとどまっているように見える。世界が終わっているのは主人公だけで、ほかの人たちはどうということもなく続いていっている。情報戦争うんぬんの話をよく追ってないからそう見えるだけかもしれないが、しかし最終兵器彼女みたいな物理的全地球的カタストロフの可能性は少なくとも扱われてない。セカイ系の元祖みたいな扱いは単に歴史的な経緯から言われているだけなんだろうか。


唐突に伊藤計劃の話を始めるとなんか気持ち悪い感じがしますが、ハーモニーを今考えると、話の筋はセカイ系かなって感じがしますが、扱われている私はぜんぜん違いますな。指示語として使われる限りの意味での「私」と、一般概念としての「私」というか。ハーモニーは「全世界同時多発「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」現象」みたいな感じでしょうか。方法論として、個別の私を一般概念の私と重ね合わせて、一気に消し去って、実際に世界の終わりを顕現させてしまう、みたいな。んで一般概念の私をどう消すかの方法にはキャラクターが二人しかかかわってなくて、それセカイ系じゃん、という。なんかそこらへんちゃんとしなきゃいけなさそうですね。


しかし最近は何読んでも「私」ばっかり出てくる感じがします。そういう本しか読んでないからかもしれん。

 キーボードそのほかを買いました


今までPCの入力機器はすべてthinkpad大明神のトラックポイント+キーボードでまかなってきたのですが、このたびPCをthinkpadから乗り換えたので新たにマウス+キーボードを購入することになりました。結論としては、以下のものを購入。

キーボード
ARCHISS  AS-KB91T
カニカル茶軸のそんなに高くない物を購入。青軸・赤軸と最後まで迷ったが、結局無難なところに落ち着く感じに。
打ってる感が楽しい。

マウス+マウスパッド
ZOWIE GEAR EC1 eVo + ARTISAN 飛燕 SOFT S
いろいろ触ってみて一番違和感がなかったものを購入。大きさが手になじむ。マウスパッドは相性を調べてその中で適当に購入。スペースの関係で大きさはSにしたが、結果的にちょうどよかった。


別にゲームをするわけでもないのにゲーミングマウスを購入するなど、全体的に「何でこれを買ったの?」といわれると「うーん・・・」となるような感じではあるんですが、マウスは持ちやすいしキーボードはうってて楽しいし、満足はしている状況です。ただキーボードはまだなれてなくてミスタイプが結構多い。


「持続可能なブログ」というものは存在するだろうか。

「持続可能な社会」という概念があるがどういうものだかしらない。適当に推測するに、多分資源の循環とか、そういう感じだろう。消費するだけじゃなくて、消費→生産のサイクルを作れと。でもブログでは難しいんじゃなかろうか。ブログの記事を作るとき、単純に一つのネタを消費すると考えると、消費→生産のサイクルとはつまりブログの記事についてのブログの記事についての…という循環になる。誰が読むんだ。俺は読まない。


サイクルができないとすれば、ネタを使いまわす方法だ。新しいネタなんぞ限られている。限られた要素からネタを無限に生成する方法がいる。それで参考になるのが新書を大量に出す人で、この手の人はネタの使い回しをうまいことやって新書を多く出している。一言で言うと細かいネタの組み合わせ論で、1−2−3というネタを2−1−3とやって新しいネタ一丁あがり、という感じ。新しい細かいネタを織り交ぜればもっと良い。実際はこんな単純じゃないだろうけれども、原理的にはこれだと思う。細かいネタでいいので新しいものも準備しやすい。すくなくとも一から考えるよりはマシ。


ボルヘスがベックフォードのヴァセックについて語った短いエッセイの中で、伝記作家について少し書いている。一人の、例えばミケランジェロの伝記を書くとして、ミケランジェロの人生を事実の列からなる一本の線だと考え、線を構成する事実にそれぞれ1,2…と数字を振っていく。気の遠くなる数字だが、それは有限であるはずだ、と考えることもできる(ココが間違えてるんだと思う)。さて伝記を書くことを、その数字が振られた事実をある順番で記述していくとすると、事実の数よりもはるかに多いミケランジェロの伝記が生成できる。単純に全ての事実を網羅すると考えても、事実の数が(a)なら伝記の数は(a!)になる。もちろん筋が通らない組み合わせもあるだろうが、ある事実を記述しないという選択も可能だろうから、結局無数の伝記が可能であることに違いはない。この発想をブログのネタに応用すると多分新書マンどもがやってるメソッドに近くなるんだろう。もちろんそれが面白いかどうかは別の話です。


日々やったことを面白おかしく書いたり、映画や本の評をすれば原理的にはずっと書ける。日記の在り方としてはそれが正しいんだろうと思う。そもそも、「人を楽しませる日記」というのも変な話で、それってたんに毎日新作が出る面白エッセイってことで別に日記ではなくないか。困ったことにこの話は実際に読んで面白いが日記としか言いようのないものがあることによってどんどん複雑になってくる。


知人の書いたまとまった文章を読むのは楽しいので、泡沫ブログであるところのわれわれはさしあたりそれを目的とする方が良いのかもしれない。

みんなブログ書けよ。

SFの中で扱われる自我の問題ってだいたいがテセウスの船の話と相同で、それ自体は別に…という感じであるが、よくよく考えると「自我問題がテセウスの船の問題と相同」という発想を引き起こす状況は結構きちんと扱わなきゃいけない感じがする。